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空の玄関はメインランド中部にあるカークウォール空港で、ハイランド・アンド・アイランド空港が運営。
2015年現在アバディーンとインヴァネスから一日2便、エディンバラから3便、グラスゴーから2便、
カークウォールへの定期便が就航。(発着便は季節によって変動あり。機材は35〜50人乗りプロペラ機)
オークニーへのアクセスは往路復路が異なる都市(往路はグラスゴーから、復路はエディンバラへ)という選択も可。
カークウォール=グラスゴー、カークウォール=エディンバラの所要時間はともに60分。
アイリーン・ドナン城、グレンフィナンなど西ハイランドからはインヴァネス発、ダノッター城など東ハイランドからは
アバディーン発が便利。インヴァネス=カークウォールの所要時間は50分、アバディーン=カークウォールは45分。
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カークウォールはオークニー諸島の州都、人口は約8500人。夏でも寒い。
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8世紀後半からオークニーはノルウェー人の移住地となり、ヴァイキングの本拠地となっていく。
11世紀にはノルウェー王国が支配し、その後もノルウェー王国やデンマーク王国の支配が続き、
15世紀後半スコットランド王国の領土となった。
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セント・マグヌス大聖堂は12世紀ノルマン人によって礎が築かれ16世紀に完成。
19世紀の初めイングランドが酒税を大幅に上げたことでオークニーの酒造業者の一人が密造酒をつくった。それが
マグナス・ユアンソンという男。彼はあろうことか大量の密造酒をセント・マグヌス大聖堂に隠し脱税していたという。
大聖堂はカークウォールの所有。どの宗派にも属さない。その伝統は時代と歴史をこえて健在。
オークニーの住民は自らをオーケディアンと呼び、スコティッシュと区別している。ヴァイキングの
子孫という自覚からだろうと思われる。 ※オーケディアンはオーカディアンと表記することもある※
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アールズ・パレスは廃墟となっている。木立の向こうに見えるのはセント・マグヌス大聖堂。
アールズ・パレスは Earl Patrix's Palace を略した名称。パトリック伯の宮殿。Earl は伯爵の意。
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左の建物はタウンホール。
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メインランド西部のステネス湖とハーレー湖の間には紀元前2500〜2000年ごろにつくられたという環状列石が立っており、
27基のストーン・サークルの直径は104メートルで、リング・オブ・ブロッガーとして世界遺産に登録されている。
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このあたりには野生のヘザーが繁茂し、夏場には薄紫がかったピンクの花が満開となる。
ヘザーはヒースとよく似ているので間違ってヒースと呼ばれることもある。ヒースはツツジ科でエリカ類の総称とされ約600種あるが、
ヘザーは1属1種のカルナ種。スコットランドではヘザーのホウキ、カゴ、ロープなどを昔から作ってきた。
ワラのロープは1年でへたるが、ロープなら7年もつといわれるほどの長持ち。米国に移民したスコティッシュがヘザーのホウキ
を持参したという記録もある。石造りの家の床にホウキは欠かせないが、もしかしたらお守りがわりに持って行ったのかもしれない。
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ヘザーはホウキやロープに使われるだけでなく、ヘザーのはちみつをソースにまぜるオークニー風トリの照り焼きというのもある。
ヘザーのはちみつはペースト状になっており、パンやスコーンにつけて食べるのも美味。ヘザーの新芽はヒツジの好物。
ウィスキー造りに不可欠のピート(泥炭)は、オークニーのヘザーが長年にわたり層をなしてできたもの。ピートは家庭の
燃料としても使われた。
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オークニーに夏が来ると、いまでもピート掘りを続ける家族がいる。次の世代がどうすればよいかの道しるべを残すために。
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オークニー諸島出身の詩人エドウィン・ミュア(1887−1959)は義兄への手紙に「スコットランド共和国が誕生することを
願っています。しかし私はスコットランドにかなりの距たりを感じています。結局自分はスコットランド人ではなく
オークニー人あるいはスカンジナビア人だからです。私の祖国はノルウェー、デンマークあるいはアイスランドのような国です。」
と述べている(1926年)。
エドウィン・ミュアはまた自著「スコットランド紀行」に、「オークニーについて多くを知るには定住し、生活のリズムに慣れ、
すべてのものの飾り気のなさと単純さを好ましく思うようにならなければならない」とも記している。
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空模様が変化し、雲のかたちもめまぐるしく変わってゆく。晴れたときよりこういうときのほうがいっそう静寂を感じる。
だがそれは不気味な静寂である。ホイ島へはメインランドのストロムネス(後述)からフェリーが出ている。
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ホイ島はオークニー諸島の南にあり、島の面積はメインランドに次いで二番目の大きさ。人口は約270人。
ホイ島の西側は断崖状になっており、高さ430メートルのウォード・ヒルが行く手を阻むかのごとくそびえている。
オークニー全般にいえるのは、高緯度にもかかわらずメキシコ湾流(暖流)のおかげで気候は厳しくないことである。
夏の最高気温が20℃以上になることも、冬の最低気温がマイナス5℃以下になることもほとんどない。
一年をとおして風の強い日が多いので樹木はほとんど育たず、草地が目立つ。
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ウォード・ヒルから見るオールドマン・オブ・ホイ。オークニー諸島は東から北海が、西から大西洋が流れ込み、せめぎあい、
こういうところに立っていると、ここが英国なのか北欧なのか判然としない。
オールドマン・オブ・ホイは高さ137メートルの海食柱で、ほとんど赤色砂岩であるが台座は玄武岩という。
ずいぶん昔からこういう姿で屹立しているようにも思えるけれど、実は400年ほどの歴史しかなく、いまも浸食中である。
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新石器時代(紀元前3100ごろ)の集落跡スカラ・ブレイは1850年、オークニー諸島の砂丘のなかから発見された。
集落は住居や墓で構成され、住居には寝室、暖炉もそなえられており、1999年、世界遺産に登録された。
スカラ・ブレイはスカラ・ブラエと表記されることもある。
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スコットランド語で「高い砂丘」の意のスカラ・ブレイは、かつて砂の下に埋もれていたが、1850年冬の大嵐により
砂が吹き飛ばされ、そこに石造遺跡があらわれた。各々の住居跡の規模は6メートルX6、34メートルほど。
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スカラ・ブレイから発見されたのは寝室、暖炉だけではなかった。食器棚、衣装棚などの家具や排水設備も見つかったのである。
40uほどの住居には小部屋もあり、収納箱らしき箱状の入れ物には石斧や魚の骨でつくられた小さな道具もあったという。
こうした住居は紀元前3100年ごろから約600年にわたって使用されたらしい。14世紀ごろのマナーハウスが21世紀の現在も
現役であることからして特に不思議はないが、5000年前ということを鑑みればなんと物持ちのよいことかと思ってしまう。
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古代遺跡をみて思うのは、人はそことつながっていて、心の一部が日常を隔てた別世界にいるということだ。
そして旅とはそうしたものだろう。遺跡も風景もどこかで私たちとつながっているのだろう。
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ストロムネスは「潮の流れに突きだした岬」の意の北欧系のことば。メインランド南西に位置する人口約2200人の小さな町。
ストロムネス港からホイ島へフェリーがアクセスしている。
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「オークニー諸島は the Orkney Islands 。鯨を海の豚(Pork)といい、後にpが脱落して Orkney になったと言われています。」
と「スコットランド紀行」の「訳者あとがき」に記されている。
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アコーディオンを弾いている人、左手に水色のスポンジをあてている。
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紋別市から関西にやってきた少女は当時小学生だった。母子家庭だった。同年の少女より背丈は高かった。
小学6年のとき、運動会の騎馬戦の予行演習で首を痛め、整形外科で受診した。その外科はヤブである。
不吉な予感がして、予行演習を見合わせるよう担任に願い出ると私は言った。少女は言うことをきかなかった。
以来、少女の身長は止まってしまった。あれから20年、二児の母となった少女の消息はわからない。
何気ない風景を見て遠くに去った心の風景がよみがえる。旅とはそうしたものなのだろう。
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夏のハイランドにしてもオークニーにしても、高緯度ゆえの夜がある。特にオークニーの夏の夜は。
夏至のころイングランドなら午後11時に日が暮れるけれど、ここでは午前0時、いや1時になっても薄ぼんやりと明るい。
その後は疲れて眠りに落ちるからわからない。完全に暗くなる前に朝がきて、要するに北欧の白夜に似ている。
聞いたところによると、冬至のころ日没は午後3時ごろ、夜明けは午前9時過ぎとか。
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自分と向き合うにはツアー客でごったがえす場所は避け、旅行代理店がパンフレットに掲載する場所もはずし、
何カ国旅したとか、世界遺産を何カ所めぐったと悦に入る人々が決して行かない場所へ行く。チャイニーズは論外。
人間を拒むような場所を選ぶべきかもしれないが、そういうところを旅するにはさらなる体力と忍耐が要求される。
行けるところは限られ、残された時間もせまっている。自分と向き合える場所=心の風景と出会う場所=を旅する。
カークウォール空港の上空から海と湖が見える。ローカル空港なので搭乗便も小型、空港も小さい。
思い出すのは旧紋別空港。発着時、小型プロペラ機の窓の眼下にオホーツク海、コムケ湖が見えた。
コムケ湖が見えると紋別に来たという実感がわいた。大空港とちがって到着ロビーと出発ロビーの区別もなく、
機内から歩いてロビーに向かう。
必ず誰かが迎えに来ていた。ほとんどは亡くなり、生きていても高齢である。心の風景となってよみがえるのは、
オホーツク海であり、コムケ湖であり、長年交流のあった紋別の人々なのだ。
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