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秋に較べると夏のダノッター城は緑が多いせいか、寂寞とは別種のすがすがしさに満ちていた。
季節や見る者によって印象の異なることはこの世の常である。
ハイランド=Highlandに生まれ育った人はいまも自らをハイランダーといい、ロウランド=Lowland生まれの人間と区別している。
ロウランドは文化、経済面でイングランドに近く、ハイランドはアイルランドに近い。スコットランドのなかで何世紀にもわたって彼らは
互いにイングリッシュ、アイリッシュと軽蔑しあっていたという、異邦人からみれば不可解な現象は、『ハイランド側からみた
ロウランド人観は、音楽や詩を解せず、祖先を誇りとせず、愛情を知らず、楽をして便利を求めるばかりで、積極的に善をなそうと
せず、悪を避けようとする。冷たく利己的で形式を言い立てる性質なのだ』(高橋哲雄【スコットランドを歩く】)ということになる。
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エディンバラからダノッター城の町ストーンヘイヴン(人口11,400人)へはA90〜A92を北東へ177キロ、3時間のドライブ。
ロウランド側からのハイランド人観はというと、『世間が狭くて外界の事情に通ぜず、怠け者で向上心がなく、迷信深く新時代への
適応力に欠け‥云々』(前掲書)といった類である。
名誉革命で王位を追われたジェイムズ2世とその血脈の人々(ジェイムズのラテンよみはジャコバイト=亡命政権支持者)は
ハイランドで再起の機会をうかがっていた。それを具現したのが「グレンフィナン」で述べたチャールズ・E・ステュアート。
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古ぼけた建物の蔭からひょいと人があらわれる。おおかたは観光客なのだが、それ以外の人たち、現世にいない人間が
まじっているかもしれず、そんなことを想像してしまう雰囲気に満ちている。
ヴァイキング侵入を見張る砦として簡素な造りだったダノッターが石造りの堅牢な城となるのは13世紀後半という。
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北イングランドの東海岸からスコットランド北部の東海岸まで、北海からの風は季節の別なく冷たく容赦がない。
セブンシスターズの英国海峡、コーンウォールの大西洋、ウェールズのアイリッシュ海、それぞれに美しいが、最も懐かしいのは北海である。
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心の深奥に届く懐かしさはどこからくるのだろう。もしかしたら夢のなかで見た風景なのかもしれない。
1999年10月にも同じことを思った。
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旅の空は旅人の心の風景を映しだす巨大なスクリーンだ。かけめぐるさまざまな思いは雲のごとくわき上がる。
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ダノッター城に入った著名人は、1297年にウィリアム・ウォレス、1562年にスコットランド女王メアリー・ステュアート、
1580年にスコットランド王ジェームズ6世。
1651−1652年には、清教徒革命と称してエディンバラ城を攻撃したクロムウェル軍からスコットランド王冠を守るため
エディンバラからダノッター城へひそかに王冠が運ばれ隠された。
その後ジャコバイトの蜂起(1715〜)にダノッター城主は加担したけれど、イングランド軍に制圧され城は廃城となった。
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町の中心からダノッター城の駐車場まで丘二つを超えて3キロ。道しるべをたよりに行けば間違うこともなく着く。
丘をよけるかのように急カーブがあるのも特色。左上の道路の上を走っているのはA957。丘も城も町の南にある。
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ナイジェル・トランダー著「スコットランド物語」によると、クロムウェル軍はストーンヘイヴンへ押し寄せダノッター城を包囲した。
ダノッター城に駐留していた40名ほどの部隊は籠城に耐える備えをしていなかったため、王冠が奪われるのは時間の問題であった。
がその時、近郊キンネフ村の牧師の妻グレンジャー夫人が奇策を練った。夫人は城の門番を訪れるのを常としていたので、クロムウェル軍も
夫人が包囲網を通るのを許可していた。ダノッター城からひそかに持ち出すのは王冠だけではなく、剣と笏も含まれている。
夫人は剣と笏を箱から出し、夫人が亜麻をつむぐときに使う糸巻棒のようにカモフラージュしたが、着衣の下に隠した王冠は、馬に乗ったとき膝の上に
置くしかなかった。乗馬寸前、クロムウェル軍の司令官が礼儀正しく夫人に手を貸したので、計略は危うくばれそうになった。
夫人が妊娠しているとでも思ったのだろうか、幸いなことに司令官は気づかず、王冠などの宝器はキンネフ教会に運ばれ、グレンジャー牧師が教会の
祭壇前の床下に掘った穴に宝器を埋めた。宝器は王政復古の日まで隠されたのである。
☆1660年チャールズ2世の王政復古後、いかにもという後日談があるけれど、冗長にすぎるので、いずれまたの機会ということで☆
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トルブース(Tolbooth)という名のシーフード・レストラン&地元で有名なパブ。港のそばにあり、昔の留置所。
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ダノッター城へ行く途中の丘の上からストーンヘイヴンの港をのぞむ。
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ボートのほとんどは漁船。漁のない日、もしくは漁が終わったことを示している。
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午後10時半を過ぎてようやく濃いめの青が緞帳のように降りてくる。紺色の空が降りてくるのは11時半過ぎである。
色とりどりの長いアメみたいな、もしくは映画「スターウォーズ」の剣士の刀のようなものが水面に映る。
めずらしいものを見ているわけではない、陳腐なものを見ている、なのに旅愁というやつが出てきて立ちどまらせるのだ。
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クィーンズ・バトン・リレーは1930年にはじまったコモンウェルス・ゲームズ(Commonwealth Games)の聖火リレーとして
1958年にスタートした。コモンウェルス・ゲームズは英連邦に所属する53の国と18の地域が4年ごとに開催するスポーツ大会で、
イングランド、ウェールズ、スコットランド、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどのほかにジャージー島、マン島、クック諸島、
インド、マレーシア、南アフリカ、ナイジェリア、ドミニカなどが参加している。2014年は第20回目。
第1回大会はカナダのハミルトン、第6回はウェールズのカーディフ、第8回はジャマイカ、第12回はブリスベン、第16回はクアラルンプール、
第19回はデリーでおこなわれ、第20回はスコットランドのグラスゴーで7月23日〜8月3日に開催(開会宣言はエリザベス女王)された。
女王のバトン・リレーは聖火ではなく女王のメッセージを運び、バッキンガム宮殿を2013年10月9日スタートして、2014年6月14日に
エディンバラ、7月23日グラスゴーに到着。ここストーンヘイヴンの町で2014年6月29日バトン・リレーがあった。
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2014年7月23日スコットランド大会に向けて2013年10月9日にリレーがはじまるのは早すぎると思う方もおられるだろう。
バトンは英連邦53カ国と18地域の津々浦々、約190,000キロの旅をするからである。
ストーンヘイヴンでのバトン・リレーはダノッター城=ストーンヘイヴン間でおこなわれた。
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入城料は1999年10月の4ポンドから6ポンドになった。とはいっても15年後なのでたいした値上げではないか。
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こういう場所でときおり思うのは、だれか見知った人が向こうから来て、すれ違わないかなということである。
そんなことを考えるのも遠く離れた旅だからだ。
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ダノッター城が戦場となったのは1297年、当時イングランド側の城であったのをウィリアム・ウォレス麾下のハイランド軍が陥落させる。
荒廃はなはだしかった城を修復したのがロバート・ブルース(1274−1329 スコットランド王ロバート1世)の配下ロバート・キースである。
ロバート・ブルースはイングランド王エドワード1世(ウェールズを併合した)に対して当初は恭順のかまえをみせたが、次第にスコットランド独立
の心意気を示すようになる。1303年、エドワード1世はイングランド軍を率いてエディンバラに進軍、7月にパース、8月にアバディーンに入る。
スコットランドの大部分はイングランド軍に制圧されたが、ウォレスは降伏しなかった。ブルースも再起の機会を待った。
1305年8月上旬、裏切りと密告によりグラスゴーの北でイングランド軍に逮捕されたウォレスは同年8月23日ロンドンで処刑される。
だが、ウォレスの死はエドワード1世の意図に反してスコットランドの国民感情を燃え立たせたのだ。1307年エドワード1世が死去すると
息子のエドワード2世とロバート・ブルースが戦うことになる。
その後スコットランドや北イングランドで戦いは続き、両国が終息に至ったのは1328年、ここでようやくイングランド国王エドワード3世は
スコットランド王国の独立と、ロバート1世が国王であることを認めるエディンバラ&ノーサンプトン条約という停戦条約に署名したのだ。
それを見届けるかのように翌1329年6月、ロバート1世は亡くなった。
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『ウィリアム・ウォレスは宮廷長官の家臣にあたる地主マルコム・ウォレス卿の息子だった。祖国の苦しみに憤り、周囲の弱気な態度
に失望し、イングランド軍の残虐行為に怒りを燃やしたウォレスは、ほとんど独力で反抗の旗印を翻した。
スコットランドにおいては、愛国者ウィリアム・ウォレスが愛国精神の発明者だったとさえ言ってもいい。何しろ国民とか民族とかいった
概念は当時はほとんど存在していなかったのである。』(ナイジェル・トランター著「スコットランド物語」)
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英国でさまざまな城をみてきたけれど、極めつけはダノッター城。次にアイリーン・ドナン城、ハーレフ城、コンウィ城。
ロケーション、城の佇まい、城からの景観、どれも甲乙つけがたくすばらしい。四つの城はスコットランドとウェールズにある。
ウェールズとスコットランドを打ち破った覇者イングランドにはティンタジェル城跡のほかに心かき立てる城は存在しない。
この時点ではそう思っていたが、その後、北イングランド・ノーサンバーランド州の北海沿岸にたたずむ廃城ダンスタンバラ城と
出会った(下のバナー「Dunstanburgh」)。ダンスタンバラ城もダノッター城も孤独、孤高という意味において甲乙つけがたい。
☆コーンウォールのティンタジェル城はケルト系修道院ほかの寄りあい建築物。コーンウォール州はいちおうイングランドに属すがイングランド的ではない☆
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光は風景を刻々と変化させる魔法使いである。魔法の粉をふりかけられた旅人は茫然と立ち尽くす。城が撮影を促していることも忘れて。
妻を断頭台に送ったヘンリー8世、そして、はとこメアリー・ステュアートの首をはねたエリザベス1世が高い評価をうけているのはイングランドに
繁栄をもたらしたからだ。リチャード獅子心王が英雄と讃えられているのは十字軍を率いて勇猛果敢に戦い、遠征先で没したからだ。
ハイランドでは事情を異にする。繁栄をもたらした王は存在しないか、いたとしても和議交渉のさなか卑屈な態度を示したことによってもたらされた
繁栄である。戦いを放棄した王、貴族はハイランダーの思惑の埒外だ。そんなことで享受する繁栄を後世まで誇り高く語り継ぐことができようか。
束の間の繁栄をもたらした人間は忘れ去られるが、伝説をもたらした人間は忘れられることはない。繁栄の命は短く、伝説は長生きなのだ。
何度敗れても再起を期す。不撓不屈。ハイランド気質は21世紀のいまも生き続けている。
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夏のダノッター城は陽の落ちる前、夕刻がいい。暮れなずむ夏の日、海に溶け込むように立つ廃城。
紺色の空が低く降りてきて漆黒色に変わる夜を待つ時刻。北海に安息の時が流れている。
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