スコットランドのなかでもハイランド(高地地方)にはずば抜けた観光名所はないけれど、特別な行事でもないかぎり観光客はそれほど多くなく、
初夏、盛夏、初秋を問わず、いつ行っても観光客のかたまりを見ずにすむ。ハイランドはイングランドほど交通の便がよくないので、レンタカー
に頼らざるをえないが、どの道を走っても渋滞とは無縁、しかも道沿いの景観がすばらしく、ドライブの悦楽を極めることができる。
 
1999年10月以来、ロイヤル・ディーサイドをゆっくり回るのは2度目、それでも新たな発見はあり、前回経験しなかったことも経験した。
 
ディー川は東のアバディーンで海に出るが、実質上クラテス城の村クラテスから始まるロイヤル・ディーサイドのドライブは
ディー川に沿ってA93が走っていることから、レンタカーでA93を西へ行けばよい。
道路はガラ空き、ディー川を見ながらの運転も可、快適この上ないドライブは英国カントリーサイドの魅力そのもの。
 
クラテスの数キロ先にバンコリー、その36キロ西にバラター、そしてクラシー、バルモラル、ブレーマーへと至る70キロの
行程がロイヤル・ディーサイドなのだ。
 
 
バンコリー
バンコリー
 
バンコリーを初めて訪れたのは1999年10月初旬。エディンバラから北海沿岸の町ストーンヘイヴンまでひた走り、
孤高の廃城ダノッター城をみて、夕刻バンコリーに投宿した。
人口約7500人の小さな町は、深まる秋とは裏腹の暮れなずむ陽につつまれ、行き場をなくした女の風情にみちていた。
 
バンコリー
バンコリー
 
10月に較べると6月下旬は日が長い。それに勝手知ったる何とやらということもあって、エディンバラからダノッター城までの行程も
近く感じられ、なんだ、こんな時間に着いたのかと思うほど早くバンコリーに着いた。
素通りするには惜しい町ではあったけれど、バラターでの見学予定があったので、ほとんど素通り状態のまま車を進ませた。
 
バンコリー
バンコリー
 
 
クライゲンダロック
クライゲンダロック
 
「オークの丘」を意味するクライゲンダロック(ゲール語から派生)。バラターの町は親切心からかクライゲンダロック・ヒルと表記している。
名前のとおり中腹まではオーク(樫)があるけれど、徐々にスコットランド松になっていく。この丘に登ると眼下にディー川をおさめられる。
 
バラター
バラター
 
クライゲンダロック・ヒルから眺めるバラターの町。上から見ると、このあたりは意外にも車が多い。
中央を走るメインストリート右側は車が連なっているようにもみえるが、なぜかわからないけれど駐車している。
ロイヤル・ディーサイドの町々での渋滞はゼロといっても過言ではない。
 
バラターには王室御用達の紋章を掲げている食料品店が数軒あり、バルモラル城(後出)へ食料を届けている。
当然とはいえ店主はそれが自慢の種であるらしい。
 
バラター
バラター
 
服飾店に王室御用達はないけれど、食料品店に負けてなるものかということなのかどうか、町の規模に見合わないような
しゃれたトレーナーやセーターなどが置かれている。その点はコッツウォルズ、特にバートン・オン・ザ・ウォーターと同じ。
 
バラター  ディー川
バラター  ディー川
旧バラター駅舎
旧バラター駅舎
 
かつては駅舎だったが売却後ビクトリア女王関連の鉄道博物館となった。
 
駅舎貴賓室
駅舎貴賓室
 
ヴィクトリア女王(1819−1901 在位1837−1901)がイスに座っている。召使いの男性はインド人。19世紀、
パキスタンはまだ存在しない。アジア、アフリカなどに多くの植民地を持つ英国が最も繁栄したのは19世紀である。
在位63年数ヶ月はエリザベス2世の64年(2016年現在)に次ぐ長さ。
 
女王専用列車(レプリカ)の前に立つヴィクトリア女王。身長は145センチくらいと伝えられている。
肥満体質であったせいか暑がりで、スコットランド、特にハイランドを気に入っていたのは、夏でも涼しい気候が一因だったのか。
 
蝋人形は英国のお家芸である。が、できのいいものよくないものとがあって、みれば誰でも違いがわかる。
 
女王専用列車内
女王専用列車内
 
19世紀は産業革命最盛期でもあった。産業革命の始祖英国が当時最も繁栄するのは当然のこととして、ロンドンはスモッグの
坩堝にあり、20世紀半ばの日本、現在の中国のスモッグをはるか以前に先取りしている。
 
ヴィクトリア女王が空気の汚いバッキンガム宮殿からも遠ざかりたかったのは自然の理、ロンドンから45キロ離れた
バークシャーのウィンザー城にもいたくなかったろう。それどころか、エディンバラのホリールード宮殿でさえ周囲に異臭を放つ
醸造所が数軒建ちはじめたといって敬遠した。空気のおいしいディー川沿岸の土地を選んだのも理由あってのことなのだ。
 
ディー川
ディー川
 
おいしい空気、清冽な流れ。
 
インフォメーション  クラシー
インフォメーション  クラシー
 
クラシー村の観光案内所。バルモラル城見学のさい、ここに寄って資料を入手。
1999年10月初旬、ここに駐車しようとしたら数名の警察官がいて、内一名の婦人警官が話しかけてきた。
婦警曰く「ここに車を駐めるなら問題ないが、付近での路上駐車はしないように」ということだった。
 
何を言っているのか不審に思い、案内所の初老の男性に尋ねたら、意外なこたえが返ってきた。
「道向こうの教会の礼拝堂で女王一家がミサをおこなっていて、おっつけ出てくるので警察官がそのように言ったのだ」。
 
クラシー教区教会
クラシー教区教会
 
クラシー教区教会は女王などロイヤルファミリーがバルモラル城滞在中、礼拝のために訪れるとき以外はひっそりした教会である。
 
クラシー教会内部 礼拝堂
クラシー教会内部 礼拝堂
 
礼拝堂は、敬虔な信仰者に建物の大小は問題ではないというほどの規模。
 
女王専用車
女王専用車
 
クラシー教区教会のからA93へと下るゆるやかな坂道。
 
女王
女王
 
A93に出てきたエリザベス2世の専用車、ナンバープレートはない。
 
1999年10月初旬、王室の人々(女王、エディンバラ公、エリザベス王太后、アン王女)がクラシー礼拝堂でのミサを終え、
外に出てきて車に乗り、それを見送ってから17年の歳月が流れた。
あのときエリザベス王太后(1900ー2002)は99歳、存外お元気そうだった。王太后は101歳の天寿をまっとうし、
17年の歳月は人の外見を変える。73歳だった女王も2016年4月21日90歳になられた。
 
女王とエディンバラ公爵
女王とエディンバラ公爵
 
ダイアナ妃(1961−1997)が亡くなった8月31日、女王とエディンバラ公はバルモラル城に滞在中だった。
事故を知った女王は、「すでにダイアナはウィンザー家に属していない」と言ったという。行動は控えるべきとの意味である。
だがチャールズは遺体引きとりのためパリに向かう。カミラとの不倫で不評を買ったチャールズの汚名挽回という見方も
あるが、ダイアナの死でさまざまな思い出がよみがえったのかもしれない。
 
ダイアナ妃の遺体はパリから英国王立空軍基地に運ばれ、セント・ジェームズ宮殿に安置される。
すげなかった女王(エディンバラ公はさらに冷淡であったという)も大多数の英国民の声に抗えずバルモラル城からロンドンへ
もどる。そしてダイアナの逝去を悼む声明を発表し宮殿に半旗を掲げ、女王が献花の前をゆっくり歩く姿が衛星中継された。
 
王たる者が王の品格と矜持、もしくは王室の尊厳を保つということを超える何かは確かに存在する。国民の志望と熱意である。
 
ダイアナ妃生前の行状が物議をかもしたことは周知の事実だ。それにもかかわらずという後日譚を記す。
「60ミニッツ」と「ヴァニティ・フェア」(両者ともにCBSの番組)が共同世論調査の「生き返ってほしい人」では、
ダイアナ妃は総数の65%で1位、2位は14%のスティーブ・ジョブズだったという。
(英国内のある世論調査では、次の国王はチャールズを飛ばしてウィリアム王子という希望が多数を占める)
 
エイズ、ハンセン病、対人地雷除去などの運動に貢献したダイアナ妃、とりわけプロテクターを身につけて地雷原を歩く姿は各国
に映像となって流された。地雷除去の資金調達を目的としたダイアナ妃主催のチャリティオークションで自分の服79着を供出し、
本邦では小学館が5着、ミネルヴァ学園が2着購入した。
 
ダイアナの死から3ヶ月後、対人地雷禁止条約が結ばれたことを知る人は少ない。
 
 
ディー川  バルモラル城への橋
ディー川  バルモラル城への橋
 
バルモラル城へはまずディー川に架かる橋をわたらねばならない。駐車場は橋の手前にあり、そこからは徒歩(橋を歩く)。
 
 
バルモラル城への橋
バルモラル城への橋
 
下にディー川が流れている。ここまではクラシーのインフォメーションから近い。
ただしA93をぼんやり走っていると駐車場の掲示板を見逃してしまう。
 
バルモラル城
バルモラル城
バルモラル城掲示板
バルモラル城掲示板
 
バルモラル城と周辺を併せた敷地面積は65000エーカー(約80万坪)。
 
 
バルモラル城の入場料は11.5ポンド。2016年の入場期間は3月25日〜7月31日、10:00〜17:00。
16:30に受付終了。建物内部はボールルーム以外非公開。2017年の公開は4月1日〜7月31日。
 
バルモラル城
バルモラル城
バルモラル城
バルモラル城
バルモラル城
バルモラル城
 
エリザベス女王、エディンバラ公は8月初旬〜10月上旬(時には中旬)の2ヶ月間バルモラル城に滞在する。
ほかのロイヤル・ファミリーは途中で抜けることが多い。
 
バルモラル城
バルモラル城
 
バルモラル城の一部は1390年に建てられた。その後、狩猟用のロッジ、別荘などの用途で売却をくり返し、
19世紀になってロバート・ゴードンなる人物が城を賃貸させていたという。
ヴィクトリア女王とその夫君アルバート公も4年にわたり主に鹿狩りの別荘として借りていた。
 
ドイツ出身のアルバート公(1819−1861)は故郷の森で鹿狩りに興じ、ディー川流域に多数の鹿が棲息していることから
ヴィクトリアを連れてバルモラルに来るようになったのだ。
 
1848年、バルモラルの地所全部(約80万坪)を購入したのはアルバート公である。一説によると故郷コーブルク(ドイツ)に
似ていたからだという。それ以降、貴族、富裕層のハイランドへの関心が高まり、開発につながってゆく。
1852年、アルバート公はバルモラル城の修復、さらに増築に着手する。その後、この館は女王夫妻の秋の住まいとなった。
 
バルモラル城
バルモラル城
 
アルバート公の趣味(鹿狩り)はハイランドに変革をもたらした。人まねをする人間というのはどこにでもいるもので、
ロイヤル・ファミリーがやるなら自分もとばかりに、貴族だけでなく新興資本家、製造業者、炭鉱主、鉄道建設家、
インド交易商などなど、相争うかのごとく鹿の森を購入し、狩猟館を建てて秋を迎え、客をもてなすようになった。
 
ところが、シカとヒツジはウシとヒツジの場合同様、同じ場所で暮らせない。わずか1世紀のあいだにヒツジはハイランド
から追い出されることとなる。
いずれにしても狩猟館や大邸宅が雨後のタケノコよろしく建ちまくり、家々を結ぶ道路建設も盛んになる。びっくり仰天
なのは、当時の資産家は自腹を切って長距離道路をつくり、必要とあらば橋も架け、貯水池を掘ったことである。
21世紀になっても、道路をつくるたびに、ハコモノを建てるたびに利権や汚職がからむ国、都会との違いは明らかだ。
 
 
こんにち、ハイランドの大邸宅、古城などが中世以来屹立すると思われがちであるけれど、それらは19世紀半ば以前
には存在しなかったのだ。
 
バルモラル城
バルモラル城
 
アルバート公の死後、ヴィクトリア女王はバルモラル城に引きこもり、ひっそりと暮らした。
そんなとき女王の侍医ウィリアム・ジェンナーが一計を講じる。アルバート公のお気に入りで公の馬の世話係をしていた
地元出身のジョン・ブラウンに女王を外へ連れ出すよう依頼する。乗馬や馬車でということなら女王もいやとはいえない。
 
女王がブラウンの根っからの明るさと率直さに打ちとけるのに時間はかからなかった。
1865年ブラウンは「ハイランドにおける女王の従者」に任命され、さらにイングランドにおける公式行事でも馬の世話、
女王の護衛をする従者として列席するようになった。彼らの親密な関係を新聞が見逃すはずはない。
女王が「ミセス・ブラウン」(ブラウン夫人)とささやかれるようになったのはメディア報道による。しかしハイランドとバルモラル城
をこよなく好んだ女王は1868年の議会開会式にも姿をみせなかった。
 
 
「イギリスの大貴族」(平凡社)によれば、「元来イギリス貴族は知性を重視せず、知識人など洟もひっかけない。
ダンテを馬の名前と心得ていたエリザベス1世の誤解はその点で象徴的であって、彼らにとって神曲の著者より
競走馬のほうが身近な存在なのだ」。
21世紀のこんにち、インテリとか評論家の地位は王侯貴族からみれば依然としてそうとう低い。批判するだけで
責任を持たず、決断力のない彼らが低くみなされるのはむしろ当然である。
 
ディー川をのぞむ
ディー川をのぞむ
ディー川
ディー川
ブレーマー城
ブレーマー城
 
バルモラルからA93を西へ17キロ。A93を車で走行していると右側に見える。
ブレーマー城は前回来たときも中に入らず、今回も入らず。1628年に建てられ、1745年のジャコバイトの反乱の後
再建され、イングランド軍の駐屯地として使われ、まもなくファーガソン家の所有となった。
 
インバーコールド・アームズ・ホテル  ブレーマー
インバーコールド・アームズ・ホテル  ブレーマー
 
ブレーマにあるインバーコールド・アームズ・ホテルで初めて昼食をとったのは1999年10月初旬。
エリザベス女王ご一家(女王、エディンバラ公、エリザベート王太后、アン王女)がクラシー教会でのミサを終えて
車に乗られたのを見届けた後、A93を西に向かって走っていたら、ちょうどA93沿いに見えたのがこの建物だった。
 
初秋、スコットランド松の近くにキノコが生え、それを使った料理は美味。部屋数59。宿は1645年建造。
 
 
ディー川 ブレーマー近郊
ディー川 ブレーマー近郊