コーンウォールと聞くと、ウェールズや北イングランド、ハイランドと同じように懐かしさで胸がいっぱいになる。
だがその懐かしさは南西イングランド特有の明るい陽光にふちどられている。
 
コーンウォールでは、広大な曠野を横切り、険しい崖の上を走る小道に旅人の求めるもの‥魂を癒やす何か
が存在するように思える。そこでは豊かさの断片と、豊かさとは縁遠い質素が見事に混在調和しているのだ。
 
旅に出て自らの心の深淵をたどりながらさまよい歩く。そこで出会ったものが探し求めていた風景なのである。
トレヴォース岬  Trevose Head
トレヴォース岬  Trevose Head
 
トレヴォース岬はパドストウの西8キロに位置し、大西洋とアイリッシュ海が交錯するロケーションは必見。
ここからコーンウォール北部の海岸線をほぼ眺望できる。
 
トレヴォース岬
トレヴォース岬
 
だれかが種をまいたのか、それとも風が運んできたのか。
 
 
ニューキー Newquay
ニューキー Newquay
 
コースト・パスをすべて歩くとふつうの日程ではとうていムリで、体力、日数など諸条件がそろわないと
クリアできない。そこで多所を端折るということになるが、問題はどこを端折るかである。
 
頭で考えることと体験とでは大きなちがいがあり、じっさいに歩くと、どこも端折れないという気になってくる。
どの道もウォーキング、景観、人との出会いがワンセットになってステキなのだ。
 
ニューキー
ニューキー
 
崖の上にフットパス(サウス・ウェスト・コースト・パス)が続いている。上から見ても下から見てもすばらしい。
夏の終わりは夏の始まりに較べるとどこかしら哀愁をおびている。フィストラル・ビーチの晩夏。
 
フィストラル・ビーチ  ニューキー
フィストラル・ビーチ  ニューキー
 
ニューキー(Newquay)のフィストラル・ビーチはイングランド随一のサーフ・スポット。
 
サーフショップでボードとスーツを1日8〜10ポンドで貸してくれるけれど、今後も波乗りの予定はない。
 
フィストラル・ビーチ  ニューキー 晩夏
フィストラル・ビーチ  ニューキー 晩夏
 
日本の、特に関西の晩夏は40年くらい前まで何ともいえない風情があった。日中の最高気温も30℃以下で、
朝晩は涼しく、真夏に遊んだ疲れをいやすにはうってつけだった。
 
近年の晩夏はどうしようもないほどの暑さで身体がついていかない。
その点イングランドの晩夏は過ごしやすく、コーンウォールもさわやかな涼風が通り抜ける絶好の季節である。
 
女性サーファーの横顔にはどことなく晩夏特有の憂いをおびた風情がただよう。人間が季節感をもたらすのだろう。
 
道しるべ  ニューキー
道しるべ  ニューキー
 
英国、とりわけイングランドにはこういう道しるべが随所にあって道案内してくれる。
長年、英国を旅し、道しるべのファンになってしまった。
 
シャボン玉飛んだ  ニューキー
シャボン玉飛んだ  ニューキー
 
風に乗って飛んでゆくシャボン玉がいつはじけて消えるのかを目で追う。
はじけず宙高く舞い上がり、風にさらわれるようにどこまでも飛んでゆくシャボン玉は自分の分身だった。
 
過ぎ去った日々。懐かしい子どものころ。孤独が好きなくせに寂しさを避けようとした学生時代。
 
ニューキー
ニューキー
 
似合う色とそうでない色とがあって、似合う色はロケーションと背景が定める。
 
ニューキー
ニューキー
 
 
 
エンジン・ハウス跡 ボタラック村
エンジン・ハウス跡 ボタラック村
 
2006年、このあたりは世界遺産に指定された。ボタラック鉱山の坑道から銅や錫が採掘されたが廃坑となっている。
 
崖下の2つの建物は城跡にも見えるけれど、錫採掘のエンジン・ハウス跡である。エンジン・ハウスは煉瓦造り。
古くは表層の鉱脈から、新しくは波の下の深層から銅や錫が採掘された。
 
ボタラックの廃鉱
ボタラックの廃鉱
 
ボタラックからランズ・エンドに至る崖に沿ってサウス・ウェスト・コースト・パスの一部がつらなり、
格好のウォーキング道となっている。
 
エンジン・ハウスの廃墟
エンジン・ハウスの廃墟
 
銅と錫の採掘で活況を呈していた地域は20世紀になると突然稼働を休止した。鉱物が産出されなくなったのだ。
 
こういう風景は昼間みても一抹の寂しさを感じる。黄昏時はなおさら。
 
エンジン・ハウスの廃墟
エンジン・ハウスの廃墟
 
 
 
エンジン・ハウスの廃墟
エンジン・ハウスの廃墟
 
コーンウォール半島は、「ギリシャ、ローマ時代の古文献のなかに【ベレリオン】=輝くものの意で、
最初はランズエンドをさしていたが、しだいにコーンウォール半島ぜんたいをさすようになったとする記録があり、
またローマ時代ではドゥムノニア王国と呼ばれた」(井村君江「コーンウォール)と記されている。
 
※ドゥムノニアはケルト人の王国※
 
 
終日待っても誰も来ない。朝になっても来ない。ただ海を眺めて過ごす。
 
煙突のある風景 ギーヴァーのエンジン・ハウス
煙突のある風景 ギーヴァーのエンジン・ハウス
 
煙突も建物も錫の採掘が盛んだったころの名残。このあたり(ギーヴァー)は保存状態もよく、博物館となっているハウスもある。
 
メン・アン・トール 穴開き石
メン・アン・トール 穴開き石
 
メンはコーンウォール語で石、トールは穴の意。石のサイズは直径1、3メートルほど、穴のサイズは人がくぐれる程度。
 
メン・アン・トールはメン・ナン・トールともいう。一説によると穴は女性器の象徴といわれ、離れて立つ石と対になって
秘事を連想させるコーンウォール式道祖神。穴開き石はボタラックの北東9キロに位置する。
 
井村君江著「コーンウォール」には、「ヴィクトリア時代には病気の赤ん坊をこの穴開き石の草の上に寝かせ、6ペンス
硬貨を頭の下に置いておけば、守護妖精が赤ん坊を病気にした悪い妖精を追い払って、赤ん坊を元気にしてくれると
信じられていた。」と記されている。
 
フグ Fogou
フグ Fogou
 
フグはコーンウォール語で「地下の羨道墳」の意。19世紀来「回廊を持つ地下洞穴」の総称となった。
 
フグは花崗岩で組み立てられた基礎部分と平たい石板の屋根で構成されている。長さは概ね13、4メートル、
高さは約1、5メートル。B.C4〜3世紀ごろにつくられ、多くがランズエンドの近隣にある。
 
墳墓のように見えるけれどそうではなく、住居でもなく、単なる物置場と考える説が有力(食料品の物置ではない)。
一部に宗教的儀式の場とする説もあるという。
 
 
ポースカーノ
ポースカーノ
 
 
 
案内図 ポースカーノ村
案内図 ポースカーノ村
 
案内図の上部中央にミナックシアターがあり、その上はポースカーノ・ビーチ。
 
ポースカーノ・ビーチ
ポースカーノ・ビーチ
 
見はるかす遠浅のビーチが眼下に広がっている。
 
ポースカーノ・ビーチ
ポースカーノ・ビーチ
 
 
ポースカーノ・ビーチ
ポースカーノ・ビーチ
 
 
ポースカーノ・ビーチ
ポースカーノ・ビーチ
 
 
ミナックシアター
ミナックシアター
 
 
ミナックシアター
ミナックシアター
 
ポースカーノ湾を見下ろす崖の岩肌を切り開いた野外劇場。
 
ミナックシアター
ミナックシアター
 
ミナックシアターはロエナ・ケイド(1893−1983)が1923年から手押し車で石を運び、ドリルで石板を彫り、
亡くなる直前の1983年6月まで劇場づくりに従事したという。
 
通常、5月中旬から9月中旬までなんらかの公演をおこなっている。
 
ミナックシアター
ミナックシアター
 
崖の中腹にあるとはいっても、客席をつくるのは容易ではなかったろう。
 
上演される歌劇はミナックシアターのロケーションとあいまって心に深く浸透する。音楽が、歌がなぜこうも心を震わせる
のかと思うまもなく潮騒が風に乗って耳元にとどく。いや、実はなにも聞こえていない、感動が海の音を消し去るのだ。
 
ミナックシアター
ミナックシアター
 
石イスの背もたれにはハムレット、オセロ、マクベスなどの名が彫られ、800名すわることができる。
 
ミナックシアター
ミナックシアター
 
演し物の名が刻まれた石のイス。4ケタの数字は上演年。
二段目左から三番目にメアリー・ステュアートと刻まれている。16世紀スコットランドの悲劇の女王。
 
ミナックシアター
ミナックシアター
 
ロエナ・ケイド(ROWENA CADE)の名が見える。
 
ミナックシアター
ミナックシアター
 
ポースカーノ湾を眺望する絶好のロケーション。最も適した演し物はテンペスト。次に十二夜。別格として蝶々夫人。
海の彼方に去ったピンカートンを想って歌う蝶々夫人の「ある晴れた日に」をここで聴くと感動の波が押し寄せてくる。
 
歌舞伎なら「碇知盛」、「俊寛」。ここに大道具をそろえて、50代〜60代前半ごろの仁左衛門がやればしびれるだろう。
「船弁慶」もいいかもしれない。長唄の舞踊劇だから踊りの名手がいい。前シテ静御前&後ジテ平知盛の亡霊は、
一に三津五郎または富十郎、二に勘三郎。大薩摩になり、隈取りをとった知盛の亡霊が出てきたら喝采ものである。
仁左衛門をのぞいてみな鬼籍に入ったいまとなっては何をかいわん。
 
ここから眺める夕焼け、あかね色に染まった海は言葉を失うほど美しい。ミナックシアターで鑑賞するさいは、
コンビニでサンドイッチと飲み物を買ってくるのがいいでしょう。イングランドのサンドイッチは当たり外れがありません。
 
 
道しるべ
道しるべ
 
マーゾルへ1マイル、ランズエンドへ11、5マイル、ペンザンスへ2マイル、マラザイアンへ5、25マイル。
 
 
マーゾル Mousehole
マーゾル Mousehole
 
NHKのTV番組「一本の道 コーンウォールを歩く」ではマーゾルではなくマウゼルと表記していた。
あえていうまでもなく、聞き方によって発音は微妙に異なるので、どちらも正しい。
 
マーゾル
マーゾル
 
海岸と丘の距離はわずか。その中間にマーゾルの町が静かにたたずむ。
 
シップ・イン  マーゾル
 シップ・イン  マーゾル
 
マーゾルの中心といえば「ザ・シップ・イン」、パブである。
シップ・インでは、イワシほか6種類の魚で作ったパイ(スター・ゲイジー・パイという)を12月23日に食べさせるらしい。
 
井村君江の「コーンウォール」に、「このパイには一つの伝説が付いている。百年ほど前、クリスマスが近いというのに
嵐が続き出航できず、村人が飢えに苦しんでいたことがあった。そのときトム・バーコックという年をとった漁師が船を出し、
7種類の魚を捕って帰港、魚のパイを作って村人に配り、人々を飢えから救ったという。それを祝うため12月23日にパイ
を作るらしい。で、そのパイは当日、先着200人に一切れずつ無料で提供されるという。
 
そしてまた井村君江によると、マーゾルは魔術師マーリンの生地といわれ、マーリンの予言にマーゾル、ペンザンス、
ニューリンを焼くであろうというのがあって、それは1595年に無敵艦隊(フェリペ2世)の船4隻がマウント湾に来襲し、
退却する前に火を放ち、マーゾルが炎に包まれ、全焼することを予知したとされている。
 
マーゾル
マーゾル
 
漁船にまじって小型帆船、ゴムボートなど多彩な小舟が往き来し、石垣に囲まれた埠頭に沿って家並みが続く。
のどかで落ち着いた小さな町である。
 
マーゾル
マーゾル
 
マーゾル埠頭の石垣に沿って並ぶ家々の裏側。晩夏ともなれば閑散としている。
 
マーゾル
マーゾル
 
 
マーゾル
マーゾル
 
下に行くほど階段は狭くなる。太鼓腹は身体を横なりにしても壁にぶつかる。
引っ返そうとすれば後ろの人も引っ返さねばならない。
 
マーゾル
マーゾル
 
マーゾルで水揚げされる魚介類の主なものを列挙すると、イワシ、サンマ、シタビラメ、サバ、カレイ、ニシン、エビ・カニなど
イキがよく味もいい。
 
マーゾル
マーゾル
 
マーゾルの漁業は年々さびれるいっぽう。それに反して数少ないパブと魚介料理店は近郊、あるいは遠方からの客で賑わっている。
 
マーゾル
マーゾル
 
そうはうまくはいかないだろうが、町全体は適度に賑わい、漁業も適度に賑わうのが訪問客にはいいように思える。
ひっそりした美しい漁港のおもむきに旅人は魅せられるのだ。
 
マーゾル
マーゾル
 
「DOLLY of MOUSEHOLE」のDOLLYは女性の名前だろう。船名に女性の名をつける漁師、船主は多い。
 
マーゾル
マーゾル
 
 
マーゾル
マーゾル
 
平家物語「浪の下にも都のさぶらふぞ」を鑑みれば、「浪の上にも駐車場のさぶらうぞ」ということになる。
 
マーゾル
マーゾル
 
魚介料理に興味のない人は夕景を賞味すべし。街灯が小さな町の美しさを引き立てる。
一日で最も心やすまる黄昏どき。
 
マーゾル
マーゾル
 
朝の光はやわらかく、見るものすべてに魅せられる。
 
マーゾル
マーゾル
 
名残の町歩き。
 
 
ペンザンス
ペンザンス
 
かつてマーゾル、ニューリンとならんでコーンウォール三大漁港と称せられたペンザンスも漁業から遠ざかり、商業の町と化した。
 
ペンザンス
ペンザンス
 
 
 
ボドミン駅
ボドミン駅
 
あれは1970年ごろだったか、イタリア映画「ひまわり」をみたのは。
ウクライナの大地に植物油栽培のためのひまわり畑が延々と広がるシーンがスクリーンに映しだされ、そのシーンの前、
寒々とした雪景色のなかを撤退するイタリア軍兵士が飢えと寒さで次々と倒れていった。
 
彼らを栄養にして見事なひまわりが畑一面に育ったような演出だったと記憶している。
そして寒さと披露で気を失ったイタリア兵士のひとりがウクライナの若く美しい女性に救われ、彼女と家庭を営む。
 
その男の元妻は懸命に夫の消息を探し、苦労のすえに夫の居場所を見つけ、列車に乗って旧ソ連のある駅に降り立つ。
そのときカメラは暗く冷たい線路を映すのだ。あたかも元夫婦のその後の心模様を映すかのように。暗い線路を見るとかならず
思い出すのは名作「ひまわり」の線路と明るいひまわりの明暗である。
 
ボドミン駅
ボドミン駅
 
 
ジャマイカ・イン
ジャマイカ・イン
 
ボドミンからA30を北東へ18キロ走ると、ボドミン・ムーア中央部の村ボルヴェンター(Bolventor)に着く。
ジャマイカ・インは「レベッカ」、「鳥」の原作者ダフネ・デュ・モーリア(1907−1989)の小説「ジャマイカ・イン」で
名を知られている。
 
ジャマイカ・インはA30に面しB&Bと博物館を兼ねる。ボドミン・ムーアを歩くならボルヴェンターに投宿するほうが便利。
デュ・モーリアは才色兼備を思わせるかわいい顔立ちをしており、コーンウォールで過ごす時間も多かったという。
 
ダフネ・デュ・モーリア
ダフネ・デュ・モーリア
 
ダフネ・デュ・モーリアは1930年にジャマイカ・インに滞在し、宿で聞いた話をもとに執筆したとされるが、
友人とボドミン・ムーアの深い霧に迷いこみ、偶然この宿をみつけたのがきっかけとなって物語の着想を
えたという説もある。小説の内容は密輸をめぐるロマンスで、1936年に出版された。
 
デュ・モーリアの乳母は子どもだった彼女に、「橋をわたるとき目を閉じなさい。目を開ければもうそこは
コーンウォールですよ」と言ったそうだ。
コーンウォールは英国とは異質の、あえていえばケルト的な土地という考えが敷衍していたのである。
 
 
ボドミン・ムーア
ボドミン・ムーア
 
南西に長いコーンウォール半島の根っこ(北東部)に広がるボドミン・ムーアには、「ボドミンの獣(Beast of Bodmin)なる
大きい黒ネコもどきの生きものが棲息し、長年にわたって何度も目撃されている」(ロンリーー・プラネット)という。
 
右側の「だるま落とし」のような積み石はチーズリンクと呼ばれ、堆積した御影石が風化したものである。
 
パイパーズ  ボドミン・ムーア
パイパーズ  ボドミン・ムーア
 
パイパーズと呼ばれる石柱。パイパー(Piper)は笛吹き、高さは約2メートル。
 
ボドミン・ムーア
ボドミン・ムーア
 
神聖な祭がおこなわれるさいの踊り子が石になったとされる石もあり、等間隔に置かれている。
この付近からは青銅製の剣が発掘されているという。
 
ボドミン・ムーア
ボドミン・ムーア
 
旅の終わりはいつも一抹の寂寞を伴う。どう考えても隠れ家とならない我が家に
帰るからだ。しかし計画を立てるのは、資料、道具などプラン作成に必要なものが
そろっている我が家でないとおぼつかない。
 
旅をつづけるために綿密なプランを立てる。だが旅の途上で旅の途轍もない広がりに
気づき、夢のなかにまぎれこんだような気分になる。魔法の粉をふりかけられたように。
旅はときとして現実との境界線を取り払い、自分の存在すら消してしまうこともある。
旅は夢なのか、夢が旅なのか。