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マラザイアン(Marazion)の近郊ペラヌスノーからのぞむセント・マイケルズ・マウント。島の中央に城のような建物が屹立している。
マラザイアンの前(南)、ペラヌスノーの斜め前、いずれにしても手を伸ばせば届くような距離にあるのがいい。
島にはパブも宿もない。が、1902年エドワード7世が城に滞在したときはパブ&ホテルがあった。
現在(2012年)、島内の家は現役・廃屋併せて30軒ほど。人口は定かではない。20年ほど前は約30人。
島内には管理人、料理人、ボートの操縦士、庭師とその家族が住み、世襲してきたというが、実態は不明。
井村君江は「コーンウォール」に「マラザイアンの人たちからはマウント・ピープルと呼ばれ、やや特別扱いされている」と記している。
コーンウォールの魅力はひとことで言い尽くせないけれど、セント・マイケルズ・マウントはたしかに旅行者を魅了する。
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495年ごろ、聖ミカエルが島の断崖絶壁に立っているのを見たという漁師の目撃伝説をもとにここが巡礼の地となり、
僧院が建てられた。11世紀エドワード懺悔王がノルマンディーのモンサンミッシェル修道院に与えてしまったという記録もある。
14世紀ヘンリー5世が対仏戦争の間隙をぬってイングランドの所有とし、1424年ヘンリー6世がサイオン修道院に与えたさい、
島への石道がつくられる。紆余曲折をへて17世紀半ばジョン・セント・オービンがこの島を購入、彼の子孫が代々相続し現在に至る。
☆17世紀半ばのイングランドは王党派と議会派に分かれ内乱が起こり、王党派の出城セント・マイケルズ・マウントは1646年に議会軍が掌握、
議会軍を指揮していたジョン・セント・オービン大佐が1654年に島を購入した。
ここの案内板にオービン・ファミリーは1647年から住んでいると記されている。問題は購入価格。知るかぎりの資料には価格に関する記載はない。
いつの世も勝てば官軍であり、勝利をおさめた将が人に言えないような破格の安値で買い取ったことは想像に難くない☆
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「セント・マイケルズ・マウントの記録は紀元前310年にまでさかのぼる。
ギリシャの船乗りであったピシアスが訪れた時の記述が最も古いものらしい。」【井村君江著「コーンウォール」】
ここを貿易取引の拠点として、錫、銅を絹、宝石と交換するためにフェニキア、カルタゴから船が出入りしていた。
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英国を長年旅して気づいたことが相当数あって、そのひとつは、城や修道院を見るたびにそこに居住、もしくは往来した王、貴族、修道士を
想像できたことである。英国の古い建造物は修復はあっても建て替わっておらず往時のままだ。
北海に屹立する孤高の廃城ダノッター城、破壊されたのにいまなお壮麗な面影をとどめているノーフォークのカースル・エイカー修道院跡。
建造物のまわりにビルディングや住宅がところ狭しと乱立し、歴史上の人物が記憶の断片として心のなかに入り込むのを妨げる。
歴史自体は自分と関わりないとしても、問題とすべきは、歴史と人間が風のごとく心に入ってくるかこないかである。
建造物が古いか新しいか、まわりのロケーションが美しいかどうかは感性と想像力に影響をおよぼし、感動の大小を決定づける。
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オービン(Aubyn)ファミリーは1647年以来住んでいると記されている。
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日時計の起源はB.C.3000以上前、古代バビロニアに遡るという。日時計は緯度によって指針の角度を調整する。
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1642年の清教徒革命時、王党派の最後の砦になったという。
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現在の城主はジョン・セント・オービンの子孫サン・レヴァン卿。
私的な部屋以外はナショナルトラストが管理し、多くの観光客に開放している。
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城内にある部屋のひとつ。壁にかかっている絵のなかにセント・マイケルズ・マウントを描いたものもある。
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皇太子・浩宮徳仁親王が訪れたさい、この城と景観を賞讃し、
滞在を3泊に延長されたという(井村君江「コーンウォール」)。
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城のなかの階数は3階、または部分的に4階。
部屋には絵画と調度品、通路には武具、スケッチ画などが整然とおさまっている。
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テラスからのぞむ庭園。
東に隣接するデヴォン(Devon)の地層は赤色が目立つのに較べてコーンウォールは明るい灰色や三原色との混合色だ。
それをケルト的といっていいのかどうかはともかく、イングランドのなかでも色彩が骨太で鮮やかである。
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向こうに見えるのはマラザイアンの家並み。
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マラザイアンの規模の小ささが手にとるようにわかる。向かって右がペラヌスノー村、左がペンザンス方面。
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潮が引いているときは車も通行可。ゆく人、かえる人がこの道ですれちがう。
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島とマラザイアンをつなぐ石の道は、ヘンリー6世治下の15世紀につくられた。
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島へ行く人、帰る人で石道は混みあって、犬はいざとなればそのまま泳ぎだすかもしれない状況。
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満潮になると泳いで渉らねばならない。セント・マイケルズ・マウントから帰る人はともかく、行く人もいてタイヘン。
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満潮ともなればさすがに歩いては渉れない。小さめのボートが渡し船になる。
この方たち、救助隊ではありません。
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これは救助隊の水陸両用車。
古いものと新しいものが同居するなどと陳腐な。人間自体に古さと新しさは同居するし、頑固と創造は隣人である。
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マラザイアン(Marazion)のチャペル・ロック・カフェ
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シンプル必ずしもベストとは思わないけれど、造形物との調べがステキ。
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ランチ18UKポンド(2012年6月時点) これといったレストランの少ないマラザイアンでがんばっている。
ディナーのアラカルト(25ポンド〜)に各々おすすめワインも提供可。料理は可もなく不可もなく。
アラカルトの量は知ってのとおり仰山なので、大食いでなければ一品で十分。
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マラザイアンに関しては「Cornwall」にも記したように人口1380人ほどの小さな町で、
店らしい店といえば薬局、パン屋、よろず屋が各1軒、ほかに骨董屋らしき店が数軒、パブが3軒。
ローマ人のつくった町を除けばブリテン島最古の町と「セント・マイケルズ・マウント記録集」に記されいる。
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対岸に立つセント・マイケルズ・マウントを間近に見ることができる、それがマラザイアンの大きな魅力。
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魚眼レンズで撮影するとこうなります。
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よく晴れた日には西にランズエンド、東にリザード岬を遠望できる。
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