名誉革命で王位を追われたジェームズ2世の孫チャールズ・エドワード・ステュアート(1720−1788)は亡命先フランスから帰還、
ステュアート朝再興を狙って蜂起した。チャールズは1745年9月中旬エディンバラに入り、カーライル、マンチェスターをへて
12月初旬ロンドンの北150キロのダービーへ進軍、ロンドンはパニック状態になったが、チャールズ軍に加わったスコットランド貴族は
それ以上の南進を躊躇しスコットランドに撤退していった。
1746年4月16日、カローデンの戦いでイングランド軍・カンバーランド公に撃破されたチャールズはヘブリディーズ諸島に逃れる。
逃亡を助けたのが24歳の若い女性フローラ・マクドナルドである。フローラはチャールズを女装させ、侍女だと偽り、
スカイ島〜フランスへ逃れさせたという。
チャールズはハイランダーの支持しか得られなかった。人数に勝るハイランド軍の兵士の多くは短期訓練された農民、
しかも大砲や銃の質量は圧倒的にイングランド軍が有利で、次第に形勢は不利となっていった。
カローデンの戦いの後、イングランド政府はスコットランドの氏族制度を廃止し、キルトの着用もバグパイプも禁止した。
結果は暗澹たるありさまに終わったけれど、チャールズの人気は落ちていない。再起と挑戦に意味を見出すからだろう。
不撓不屈。ハイランド気質は21世紀のいまも生き続けている。
|