カースルトン |
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ペヴェリル城(跡)への坂道からカースルトンの村をのぞむ。城跡はカースルトンの南の丘陵に立っている。
※「カースルトン」は「カッスルトン」という表記もありますが、当HPではカースルトンに統一しています・
「Castle」は英国で「カースル」と発音され、米語の「キャッスル」と異なり、「カッスル」でもないからです※
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カースルトン |
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ピーク・ディストリクトといっても面積は広大、どこに宿をとるかによっておのずと歩行場所のいくつかが定まる。
行動日数に制限があり、ケーブデイル経由でマム・トアをめざすコース重視ならカースルトンに宿をとる。
どこをを起点にしてもB&Bはよりどりみどり。
日数に余裕がある場合でもカースルトンの地理的優位は抜群(バンフォードやハザセージ、イームに近い)であるけれど、
レンタカーで移動、多少の出費はいとわない、部屋も設備も十分快適な宿のほうがいいというならバクストンに宿をとり、各地の
ハイキングコースを踏破し、申し分のないロケーションの村や町を散策するのもいい。
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カースルトン |
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人口わずか650人の小さな村だがB&Bの数は多いし、夏期にはハイカーもおおぜいやって来る。
標高517メートルのマム・トア目当てのハイカーにとってカースルトンは聖地の様相を呈している感もある。
そんなに低いところになぜという疑問は当然として、思うにロケーションがすばらしいからだろう。
観光案内所には地図・資料が豊富、スタッフが懇切丁寧。そうしたことも旅人にはありがたいのです。
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ペヴェリル城 |
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ペヴェリル城はノルマン朝第3代イングランド王ヘンリー1世(1068−1135)に仕えたウィリアム・ペヴェリルが
12世紀に創建したという。廃城というのはダノッター城と同じように、毅然としていても孤高で、寂寞感に満ちている。
ウィリアム・ペヴェリルはウィリアム征服王(ウィリアム1世 1027−1087)の私生児であったといわれている。
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ピーク・キャバン |
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ピーク・キャバンからカースルトンをのぞむ。
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カースルトン |
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ピーク・ディストリクト一帯は石灰岩地質。清冽な水をはぐくむのに適している。それゆえ飲料水は井戸、水道の別なく美味。
わざわざミネラルウォーターを注文しなくてもいいのは北ウェールズと同じ。
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道しるべ |
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パブリック・フットパスの道しるべを見ると時折スタンダールの文言を思い出す。
スタンダールは「英国について」の文章に「イタリアの青年ほど閑人はいない。感受性を取り上げかねない運動など
彼らには堪えられないのだ。彼らとてもときには2キロほどの散歩はやる。それは健康のために辛い療法としてやるのだ。
女にいたっては、ローマの女は1年中かかっても若い英国娘の1週間分の道も歩かない」(【恋愛論】より)
21世紀のこんにち、歩くことは脳の血流を促進し、痛みを司る脳神経をやわらげる作用もあることが実証されている。
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家族 ペヴェリル城跡 |
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ペヴェリル城跡の景観に魅せられて2日連続で歩いた。
1日目に較べて2日目はときおりこぬか雨が降って寒々とした空模様。しかし、すばらしい家族に会えた。
3〜4歳くらいの女の子を連れた一家が歩いていたのだ。下り坂に気をつけて、手を出しなさいと母親は言ったが、
女の子は手を出さず自分のちからで歩き通した。私はそこに英国魂を見たような気がした。
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ペヴェリル城跡 |
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2005年7月7日午前9時前、ロンドンの地下鉄3線の車両3台がほぼ同時に爆破された。さらに午前9時45分過ぎ、
大英博物館に近いラッセル広場を走っていた2階建てバスも爆破される。
世にいう「ロンドン同時爆破テロ」である。死者56名、負傷者700名以上の大惨事は世界各地にテレビ報道された。
爆破により負傷した若い女性がテレビカメラの取材にこたえていた姿をいまも鮮明におぼえている。
顔と腕から血を流しながら女性は言った。「下にけが人がおおぜいいる。早く助けてあげないと。私たちはテロに屈することは決してない」。
第二次大戦時、ナチスドイツによるロンドン大空襲で家族を失い、明日の生活も定かでない若い女性が決然と、私たちが
ドイツに屈することはないと言っていた映像が脳裡によみがえってきた。英国魂は確実に継承されている。
旅は記憶をあざやかによみがえらせてくれる。私たちはそのとき眼前の風景を見ていない。自らの心の風景を見ているのだ。
それにしても後方の青い男の子。途中まで別の家族の一番うしろにいたのに、いつの間にか先頭に立って待っている。
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カースルトン |
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夕暮れともなれば気温は一気にさがる。日中は24℃くらいまであがっても、午後9時ごろの薄暮にはおおむね18℃。
しかし、7月上旬に入ってこの気温、湿度の低さ(40%ほど)は快適そのもの。
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ケーブデイルへ向かう |
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午前の気温はおおよそ15℃、もしくはそれ以下。それでも谷間にしては高いほう。空気が乾燥しているので体感気温は12℃前後。
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ウィナット・パス |
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ウィナット・パス(峠)の雑草におおわれた岩山が左右にせまる光景はすばらしい。
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ケーブデイル |
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ケーブデイル |
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ピーク・ディストリクトのどこを歩いても、こきざみに景観は変化し飽きることがない。見晴らしのきく場所からながめる景色は
絶景というほかなく、しかもそれを見るための労力・時間は少ないのでリピーターはあとを絶たない。
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ケーブデイル |
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歩くこと自体が快感。そう思わずにはいられない。
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ケーブデイル |
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ケーブデイル |
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ケーブデイルのハイキング道からマム・トアまで徒歩1キロ弱の駐車場が見える。上と下で道路が2本あるようにも見えるが、
1本の同じ道路が蛇行し、右側のヘアピンカーブを曲がって続いている。この道(画像下側)を約600メートル北東へ進むと
右手に側道があり、そこ(地道)を500メートルほど行けばマム・トアに着く。
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マム・トアへの車道 |
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マム・トアへはカースルトンからハイキング専用道を徒歩で約4キロ(80分)。歩いて往復してもたいしたことはない。
レンタカーで移動し、日程にも余裕があるので、1日目は車(カースルトンから8キロ先の駐車場からマム・トアまで1、5キロ)。
1日目の天候は晴。2日目はいまにも雨が降ってきそうなうそ寒い道を歩いた。あっという間にマム・トアに着いたら天気も回復。
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マム・トアへのハイキング道 |
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乾いた空気のうまさ。涼しさ。曇ったり雨が降ると急激に気温も下がる。
軽装で、長めの散歩気分で歩く。歩くことの楽しさが身体にみなぎってくる。
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マム・トアへのハイキング道 |
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カースルトンとマム・トアの標高差は400メートル。だれでも簡単に登ることができる。ハイキング客が絶えないわけだ。
そんな低い場所にもかかわらず地理的条件がいいことと360度の大パノラマのおかげで、マム・トアからは
ダークピーク、ホワイトピーク両方の景観がのぞめる。
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パラグライダー マム・トア |
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ハングライダーで空に飛ぼうとする人をみかけた。下り坂をいきおいよく走って宙に舞う。爽快感いかばかりか。
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パラグライダー マム・トア |
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マム・トア |
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マム・トア |
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マム・トア |
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カースルトン |
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カースルトンを去る朝、それまでにない好天にめぐまれた。夏のイングランド、晴天の日は多いけれど快晴はそう多くない。
ましてピーク・ディストリクトは全体が高台にあって天候も変化しやすい。旅の移動日、やる気満々の若ハイカー4人が歩いていた。
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バンフォード |
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ロック・クライマー バンフォード |
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バンフォード・エッジ |
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バンフォード・エッジは岩のエッジ(切り立った崖)。ピーク・ディストリクトにはエッジと名のつく場所は多い。
「プライドと偏見」(2005年 英仏米合作)でキーラ・ナイトレイがバンフォード・エッジの突端に立つ。名場面である。
反対方向から撮影しており、人造湖は映っていない。画像処理したのかもしれない。
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バンフォードエッジ |
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絶景にちがいないけれど、高所恐怖症なら足がすくむ。雲の流れが早い。
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バンフォード・エッジ |
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ヘザー(ヒース)の群生に風が巻き込まれ、うめき声をあげる。風がやむと静寂につつまれる。
妖精がひそひそ話をする黄昏にはまだ早い。
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バンフォード・エッジ |
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景観をながめる人。ながめる人をながめる人。時は7月初旬、しかし気分は晩夏。追想もまた晩夏のドラマについて。
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バクストン |
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バクストンはピーク・ディストリクトのなかでは比較的人口の多い町。それでも22000人だからたいしたことはない。
ピーク地方の西に位置し、観光名所は少なく、オペラ・フェスティバルで名高いオペラハウスもあるが、夏期はほかの
都市と同じく歌劇は上演されない。旅の疲れを癒やすならオペラハウス南裏のパビリオン・ガーデンズで過ごそう。
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パビリオン・ガーデンズ バクストン |
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パビリオン・ガーデンズ沿いのブロード・ウォークは車の立ち入りが禁止されていて、8室しかないけれど清潔で低料金、
朝食のうまいB&Bヴィクトリアン・ゲストハウスもある。
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パビリオン・ガーデンズ バクストン |
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バクストン(Buxton)の水もおいしい。「Buxton」と銘打ったミネラルウォーターはイングランドの多くの町で売られている。
しかしいうまでもなくここで紹介する町や村では見かけない。蛇口をひねればおいしいミネラルウォーターが飲めるからだ。
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パビリオン・ガーデンズ バクストン |
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旅に出て満たされる瞬間。子どものころの思い出に出会うとき。
旅に出るために、旅に出て子どものころにかえるために生かされてきたのかもしれない。
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イーム村 |
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イーム村の人口は約970人。カースルトンからB6049を7キロ南下し、A623の交差点を左折、5キロ東に進めばイームだ。
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Meet Me There |
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墓石にミート・ミー・ゼアと刻まれている。右手は天を指している。説明の要はいらない。
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日時計 |
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村のイーム教会のファサードに架かっている。
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日時計 |
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ペスト・コテージ |
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イームは1665年、ロンドンで大流行したペストが波及し猛威をふるった村である。
仕立屋ジョージ・ビカーズがロンドンから持ち込んだ生地にへばりついたノミがペスト菌に感染していたのだ。
イーム村もペストに襲われ、コインを酢で消毒するなど対策を講じたが、350人の住民のうち250人が亡くなった。
(英語のPLAGUEは伝染病、ペストの意)
このコテージは仕立屋が住んでいたペスト小屋(PLAGUE COTTAGE)である。
中世〜近世ヨーロッパにおいてはペストはネズミによって感染すると信じられていた。そこへまさかの生地である。
だれがいつ生地に感染源がひそんでいると気づいたのか、あるいは究明したのか、不勉強な私は知らない。
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ローズ・コテージ(ローズ家)では約7ヶ月の間に9人のうち全員がペストで亡くなった。
このような掲示板がイーム村に何枚掲げてあったろう。
350年ほど経ったいまも当時の出来事が風化しないようにとの努力がなされている。
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イーム教会 |
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夜のイーム教会。過去に何がおきたとしても、ライトアップされた光景は美しい。墓石さえも。
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イーム村 |
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この店はパブ兼土産物屋兼B&B。現代のイーム村である。
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ハザセージ |
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1845年にシャーロット・ブロンテがハザセージを訪れた。この村でジェイン・エアのヒントを得、構想を練ったといわれている。
ハザセージはカースルトンからA6187で7キロの至近距離。バンフォードからはわずか3キロ。人口約1400人の小さな村。
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フットパス ハザセージ |
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フットパス ハザセージ |
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フットパス ハザセージ |
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フットパスときいたらとにかく歩く。歩いて歩いて歩き倒す。
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フットパス ハザセージ |
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フットパス ハザセージ |
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てくてく歩いていると周囲の植物に変化がおきてくる。このあたりはシダ類が繁茂。
平地のフットパスもそうであるが、高台のフットパスはとりわけ森羅万象が渾然一体となって、えもいわれぬ匂い。
草木が熟成されているのか、芳潤な香りが立ちのぼってくるのだ。風が爽快感を募らせる。フットパスのご馳走。
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フットパス ハザセージ |
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そろそろ終点。奥のほうに見える切り立った崖はカーバーエッジ。
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カーバーエッジ |
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スタネージ・エッジ |
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カーバーエッジからスタネージ・エッジまではそれほど遠くない。ハザセージを見渡せる断崖として最大規模。
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スタネージ・エッジ |
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標高458メートルのスタネージ・エッジの断崖まで来ると眺望は抜群。
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スタネージ・エッジ夕景 |
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彼方にみえるカーバーエッジに夕日が沈んでゆく。ものみな美しくみえる時間。旅の終わりは始まりである。
ここに掲載しなかったベイクウェル(Bakewell)、アシュフォード(Ashford)は下のバナーを。
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