イングランド中西部に位置するシュロップシャー州は西側のウェールズと隣接し、面積3500平方キロ弱、
人口48万6千人と小規模の州。州都シュルーズベリーは中世以降市場が開かれ、ベネディクト派に属した
シュルーズベリー修道院が11世紀後半に建造され繁栄した。
 
シュルーズベリーの南46キロのラドローも中世〜近世に栄え、2つの町のあいだに築かれたストークセイ城は
小規模ながら要塞の役目を果たしたという。
シュルーズベリー
8月というのに空気は極度に乾燥し、日中の最高気温も20℃を下回ることがある。道行く人々の服装もまちまち。
シュルーズベリーの人口は約64600人。シュロップシャー州最大の人口を有す。
シュルーズベリー
シュルーズベリー テューダー様式
テューダー様式は15世紀後半〜17世紀初頭、ヘンリー7世からエリザベス1世の時代(1485〜1603)に
流行った建築様式。ハンプトンコート、ウェストミンスター寺院など。民家はおおむね木組み。
シュルーズベリー テューダー様式
シュルーズベリー修道院
シュルーズベリー修道院は初代シュルーズベリー伯爵ロジャー・デ・モンゴメリー(1005−1094)が1083年に建造。
モンゴメリーは現在のウェスト・サセックス州のアランデル伯爵でもあった。
建築様式は増改築の結果、ノルマン、テューダー、ヴィクトリアの折衷様式。修道院の石材は赤石灰岩である。
 
シュルーズベリー修道院の修道士カドフェルを主人公にした英国ドラマがあった。「修道士カドフェル」は12世紀前半の
イングランドの時代背景をうまく描いている。ヘンリー1世(1068−1135)が亡くなり、王位継承争いが勃発、
ヘンリー1世の娘マティルダと従兄スティーブンが熾烈な戦いを繰り広げる。
シュルーズベリー修道院
シュルーズベリー修道院
カドフェルを演じたのは名優デレク・ジャコビ。カドフェルは第一回十字軍に従軍した経験があり、エルサレム陥落後
イングランドに帰参するさい持ち帰った薬草を育て、修道士や住民に治療を施している。
 
日本では1995年NHK・BS2(当時)で10話、その後2001年だったと思うが3話放送された。
続きがあるかと期待したけれど、結局合計13話で終了し、残念な気持ちはいまだに残っている。
修道士カドフェルはミステリー・ドラマ。シュルーズベリー行きを示唆したのは間違いなくカドフェルだ。
シュルーズベリー修道院
シュルーズベリー修道院
のちにプランタジネット朝を開いたヘンリー2世(1133−1189)はヘンリー1世の外孫。
ヘンリー2世が主人公の英米合作映画「冬のライオン」は名作で、
ピーター・オトゥール(ヘンリー2世)、キャサリン・ヘプバーン(エレノア・ダキテーヌ)が夫婦をやった。
 
フランス西部アキテーヌ地方は農耕にうってつけの肥沃な土地。ボルドー、バイヨンヌ、ビアリッツなどの
観光地が目白押し。英仏両国がアキテーヌの領有権をめぐって争ったのもよくわかる。
 
ウェールズ出身のアンソニー・ホプキンスは「冬のライオン」で息子リチャード(後のリチャード1世)を演じた。
ホプキンスが語ったところによると、
キャサリン・ヘプバーンから「演技しようとしないあなたを変えてはいけない。持続なさい」と言われたそうだ。
シュルーズベリー修道院
シュルーズベリー修道院
シュルーズベリー修道院の西側ステンドグラスから入る太陽光。
シュルーズベリー修道院
シュルーズベリー
チャールズ・ダーウィンはシュルーズベリーで生まれた。シュルーズベリーの寄宿学校で学び、16歳のとき医学と地質学を
学ぶためエディンバラ大学に入った。その後父の要請で神学ほかを学ぶためケンブリッジ大学に入るが、ダーウィンが
専念したのは博物学と昆虫採集だったという。それがなければ、また、ビーグル号航海がなければ、ダーウィンの名が
歴史に残ることはなかったかもしれない。
シュルーズベリー
シュルーズベリー  ストリート・シアター・フェスティバル
チャールズのファーストネームは同じでも、こちらは喜劇王チャップリンふうのメイクと口ひげ。
チャップリンはロンドンで生まれた。
シュルーズベリーのストリート・シアター・フェスティバルは毎年概ね8月末〜9月初旬の3日間開催される。
シュルーズベリー  ストリート・シアター・フェスティバル
シュルーズベリー
シュルーズベリー
シュルーズベリー 大道芸
英国の大道芸やフェスティバルの良さは、町の何カ所かでおこなわれること、見物客が少ないこと、
したがって人間の背中や頭を撮影せずにすむこと、見物客の世代が多岐にわたり、それぞれのすがた、
動作がおもしろく、フレームのなかに入っても絵になることなどである。
シュルーズベリー 大道芸
シュルーズベリー 大道芸
ストリート・パフォーマンスが好きだ。町を散策して予期しない大道芸人に出会うと心が踊る。
 
大道芸、フェスティバルの回数が多く、芸もたしかなのは英国が随一である。
1999年6月中旬チェスターでミッドサマー・ウォッチ・パレードをみて以来、どこかでやっていないか期待する。
 
英国は大道芸、フェスティバルが多い。見物の人たち、しあわせそうな顔してる。
シュルーズベリー 大道芸
シュルーズベリー
1999年チェスターに行ったころはカメラもアナログ。夢中になってパレードを撮っていたら、
フィルム10本(36枚撮り)がなくなった。
短い時間に360枚も撮っていたのだ。旅行中は一眼レフ2台とバカチョン1台持って行き、
 
おおかたの撮影は一眼レフ使用。フィルム交換に手間取ってシャッターチャンスを逸したらタイヘン。
そうならぬよう2台持参は必至。
デジタルカメラはありがたい。32ギガ1枚のメディアで1000枚以上撮れる。36枚撮りフィルムなら30本分。
シュルーズベリー
シュルーズベリー
シュルーズベリー
シュルーズベリー
大道芸を堪能したあと静寂をもとめぼんやりする。木々の緑も見るが、川面に映る空と雲も見る。
奥嵯峨の大沢池でも、散策後は池に映る雲を見る。どこにいても旅のスタイルは変わらない。
シュルーズベリー
シュルーズベリー
イングランドでボートに乗ったのは湖水地方だった。学生時代、講義のあいまに千鳥ヶ淵に出てはボートに乗った思い出が
よみがえる。学生時代以降、家内と方々でボートに乗った。そのころはボートを漕いでも多少の余力はあったけれど、
50を過ぎたら体力の衰えを感じるようになった。旅に必要な体力は温存し、体調変化にも対応しなければならない。
それでも乗りたいと思うことはある。
シュルーズベリー
シュルーズベリー セヴァン川
時間とともに刻々と変わる光と影。光と影の配分で微妙に変化する色。シャッターチャンスはわずかな時間だ。
時間を切りとることの難しさ。写真と目に映る色は別物である。目に映る風景のほうがはるかに美しく、生き生きと、
しっとりしている。被写体が最も美しくかがやく朝夕。夕方、黄昏どきの光は別格、みるものみな美しくみえる瞬間。
(セヴァン川はセバン川という表記もあり、ここではセヴァン川=River Severn)
シュルーズベリー セヴァン川
シュルーズベリー セヴァン川
セヴァン川の蛇行のようすがよくわかる。セヴァン川はウェールズの高地の町スランイドロス(人口約2900人)近くに
端を発し、カンブリア山脈に見守られるように600メートルの高度を保ちながら、その後シュロップシャー、
ウースターシャー、グロスターシャーを流れてブリストル湾にそそぎこむ。セヴァン川の全長は約352キロあり、テムズ川の
全長約346キロを僅差で凌ぎ、英国最長の川である。
シュルーズベリー セヴァン川
ラドフォード橋  テム川
ラドローはシュルーズベリーを流れるセヴァン川の支流テム川とコーブ川の合流地点近くにある。
ラドローの南1、6キロのラドフォード村を流れる
テム川に架かるラドフォード橋はバラ戦争の「ラドフォード橋の戦い」(1459年10月12日)で名を知られている。
 
ラドフォード橋がつくられたのは15世紀、1795年の豪雨・洪水被害後は荒廃し、1886年に再建され現在に至る。
ラドフォード橋  テム川
ラドロー
シュルーズベリーからA49を南へ46キロ行けばラドロー。人口は約1万人。左の建物はラドロー城。
ラドロー
ラドロー
ラドロー
ラドロー
ラドロー
ラドロー
この民家の木組みはエリザベス朝の様式。これまで何度も修復を重ね、ラドローの町を彩っている。
ラドロー
ラドロー市街図
ラドロー市街図
ラドロー カースル広場
ラドローは12世紀以来、市場町として栄えた歴史がある。その中心となったのがカースル・スクエア。
ラドロー カースル広場
ラドロー城 入口
ラドロー城 入口
ラドロー城
ラドロー城は1090年ごろの創建時はノルマン様式であったが、何度か増改築されテューダー様式の部分も加わっている。
西からのウェールズの侵略に対抗して建てられ、12世紀ヘンリー1世死去後の王位継承をめぐる内戦や
13世紀のイングランド対ウェールズの戦いのさい骨格を補強拡張され、15世紀にはヨーク家とランカスター家のあいだに
勃発したバラ戦争時にはヨーク家の重要な根城となる。その後の紆余曲折をへて20世紀に入って大々的な修復がなされる。
 
現在、ラドロー城はウェールズのパウイス伯爵が所有し、ラドローの名所として多くの観光客を集めている。
ラドロー城
ラドロー城
ラドロー城
ラドロー城
シュロップシャーは北ウェールズに近いせいか、北ウェールズの名城コンウィ城やハーレフ城、ボーマリス城と
佇まいが似ている。城からの見晴らしがステキであることも共通していて、高い建築物はといえば教会くらい。
空気がスカッとして気分爽快。
ラドロー城
ラドロー城
ラドロー城
ラドロー城
ラドロー城
ラドロー城
小窓からのながめ。創建当時、木々はあったとしても、このように繁茂しておらず、背丈も低かったろう。
ラドロー城
ラドロー城
こわれてそのままの木製扉がなんともいえない。わざと未修理状態にしているのかと思えるほど見事。
ラドロー城
ラドロー城
城のそばを流れるテム川。観光客に潤いを与えている。
ラドロー城
ラドロー城
ラドロー城
ラドロー城
大きめの井戸はラドロー城の生活要員の多さを物語る。敵に攻められ籠城するさいの飲料水確保を示している。
ラドロー城
ストークセイ城 駐車場 サウスタワーからの眺望
ストークセイはラドローからA49を北西へ9キロほど進み、人口約2300人小さな町クレイブン・アームズの
手前1キロの地点に「Stokesay」の標識があるので、そこを左折すれば1キロ弱でストークセイ城の駐車場に着く。
ストークセイ城 駐車場 サウスタワーからの眺望
ストークセイ城 ゲートハウス
サウスタワーにのぼると周囲のみはらしがきく。ゲートハウスはみてのとおり邸宅ふう。
ゲートハウスの切妻屋根も風変わりだが、ノースタワー(二つ下)の骨組みが屋根を支えているのも興味深い。
ストークセイ城 ゲートハウス
ストークセイ城 サウスタワー
ストークセイ城のサウスタワーはかつての砦。堅固なつくりとはいえず、敵に攻められたら
ひとたまりもなく陥落するのでは。
サウスタワーは13世紀後半、羊毛商人のローレンス・ラドローによって建てられた。
ストークセイ城 サウスタワー
ノースタワー ストークセイ城
ノースタワーの意匠はおもしろい。要塞といえるのかと訝るような造形が目につく。後世の増改築というわけでもなく、
家屋部を支える木組みがなんとも危なっかしい要塞ふう邸宅だが、英国では最も保存状態のよい中世の要塞と評価されている。
 
1870年代の修復をへて1908年に一般公開された。1986年政府のイングリッシュ・ヘリテージに管理が委ねられ、
直後の修復が英国民に周知されたこともあって、徐々に観光客が訪れ、2010年の統計によれば約4万人が来訪。
 ノースタワー ストークセイ城
ゲートハウス ストークセイ城
ゲートハウス ストークセイ城
ゲートハウス ストークセイ城
ゲートハウス ストークセイ城
アイアンブリッジ
アイアンブリッジは町の名でもあり橋の名でもある。
町のアイアンブリッジはシュルーズベリからA458を南東へ22キロ進み、A4169を左折、約6キロ北上した地点の
ラウンドアバウト右に折れ、2キロ行けば到着。人口約2400人ほどの町。
 
アイアンブリッジ建設は1779年元日に始まり1781年元日に開通した。その後まもなくアイアンブリッジの名を冠した
町の計画が始まった。19世紀初頭ベンジャミン・ディズレリー(ユダヤ人の英国首相 1804−1881)など多くの著名人
が訪れたが、20世紀以降、町は衰退する。ところが1986年、アイアンブリッジ峡谷地域がユネスコの世界遺産に指定され、
シュロップシャー州有数の観光地となる。
 
2003年7月10日、エリザベス女王とエディンバラ公がシュロップシャーを訪問したおり、この橋を歩いて渡った。
アイアンブリッジ
アイアンブリッジ
アイアンブリッジ
アイアンブリッジ
アイアンブリッジ
アイアンブリッジ
旅の終わりは必ずやってくる。美しいときもあれば、そうでないときもある。
 
しかし旅は美しいものだけが記憶の断片となり、追懐の対象となってしまう。
「人生は美しくあるべきです」と私はMさんに言ったそうだ。よくおぼえていない。
Mさんの手紙にそう書かれていた。あれから45年、途方もない時間が過ぎ去っていた。
アイアンブリッジ